
タイトルの「Atonement」の動詞形「つぐなう」は ATONE だけれど、これは
AT ONE が語源で「ひとつになること、元に戻すこと、和解すること」。
酷い結末になると予測できず、ついやってしまったこと。
ふとした不注意で起こしてしまった事故。
それは私たちが生きている日々でよく遭遇する出来事だ。
悔やんで、悔やんで、「どうしてあの時・・・」と渦巻く思いに、傷口を広げてしまうこともある。
しかしいくら悔やんでも、過去を消すことはできない。
犯した罪の深さに気づき、それを心から悔やんでつぐないたいと願う少女がいた。
贖罪の日々は報われるのか。
壊れた関係を、またひとつに戻すことはできるのだろうか・・・・
☆☆☆☆☆、でございました〜
ラブ・ストーリーのように宣伝されていますが、この映画のテーマは人間の愚かさとそれに伴う切ない胸の痛みだったと思います。
Atonement: A Novel

映画では語られなかったこと、映像化できない、文字でしか表現できない部分がまた深かったです。
本当は映画を見たあとにレビューを書いてから原作を読むべきだったんですけど、もう読んじまったので、どうしても原作を引き合いに出すレビューになってしまうことをお許しくださいませ。
(確信犯か、自分)

というわけで、ストーリーについては多分長くなってしまいそうなので、とりあえず俳優さんについて(はい、マカヴォイさんですが)書いておきたいと思います。

いわゆる『イケメン俳優』としてデビューしたわけではないけれど、顔だちも整っていると思います。けれど、とにかく『表情の作り方』が美しいのです。
真摯に向けるまなざし、苦悩に満ちた顔、怒り、悲しみ、慈しむ表情・・・・
役者だわ!
もう、マカヴォイさんのプロモーションフィルムじゃないかと思えるほど、マカヴォイさんの魅力全開でございます。
最初の庭師姿やタキシード姿もいいけど、汚れまくって痩せこけて、目がぎらぎらしてる兵隊姿がまたこれ、どうしたもんでしょうか・・・やばいでしょう、実際。
ほんとにナルニア国ではフォーンだったとは信じられないですわ〜
そいえば、どこかで「ナルニアで下半身が馬だった俳優」と書いてあって「確かにそうだけどね〜〜」と笑えましたが・・・
(でも、この汚れた兵士姿が誰かを思い起こさせる・・・このワイルドさが・・・・と思って必死で頭脳内検索をかけたら・・・が〜〜〜〜ん!
・・・・ラッセル・・・クロウ・・???
やめてよ自分、そそそそんなはずはないでしょう、と思ってみていると、あれ? また!
というわけで、額から寄せた眉根の辺、さらに落ち窪んだ目にかけてかなあ・・・すんごく痩せたラッセル・クロウの若い頃(「L.A.コンフィデンシャル」からしか見た事がないから、実は若い頃を知らないの。あのときでも33歳だからね、ラッセルは。)に似ているのではと思ってしまった罪深きわたくしをどうぞお許しください・・・・)





すみません、このような格調高い作品を語るのに、非常に次元の低いことを書いてしまいました〜〜(汗)
気を取り直して。

確かに今、旬の女優さんなのかもとは思いましたが・・・
痩せすぎじゃないですか? 硬くて女性的な体の線がないんですよ。
原作ではセシリアは確かに胸が小さいと書いてありますが(爆)、とても母性的な女性なんですよね。
妹の母親代わり的なところがあり、悪夢を見た妹にやさしく語りかけてあげたりするし、親戚の双子まで風呂に入れたりこまごま世話を焼いてやったりする。
でもキーラが演じるとそういう感じがでなくて、化粧は濃いし、タバコはぶかぶか吸うし、何でだかやけにつんけんして表情きついし、どうも良家のお嬢様に見えない・・・・
彼女はボーイッシュでおてんばな、すこし蓮っ葉な役がとっても似合うと思う。
「パイレーツ・オブ・カリビアン・シリーズ」なんかほんとピッタリだったし、「ベッカムに恋して」も合っていた。
「プライドと偏見」もまああれはあれで許せた。
でもこの役は、彼女じゃないほうが良かったと思う。
監督も最初から「キーラはブライオニー役」と思っていたのを、キーラが「私が絶対セシリアをやりたい!」と言い張ってもめた、とパンフレットの中のインタビューでキーラ自身が語っていたけれど、結局キーラの意思が勝ったのね。
でも、jesterにはブライオニーが彼女だったほうが良かったかもしれないと思えます。
原作では、ロビーはセシリアの顔を「長くて、ちょっとhorsey(馬みたいな、不恰好という意味もある)だ」って思ってるって書いてあるんですよ。(まあそれがだんだん綺麗に見えてくるのですが。)
その辺も、キーラは馬顔というよりエラ張り顔(殴)なので、イメージが違うかなと。
(jesterはキーラの顔の下半分が苦手なのでした)


辞書とシサーラス(同意語辞典)が友だちだったという、エキセントリックな空想しがちな少女にピッタリでした。

原作云々で映画を語られるのは興ざめと思われる方は、どうぞ以下は読み飛ばしてくださいませ。
****以下、原作と映画の内容には触れてます。ひどいネタバレはありませんが、未見の方、どうぞご注意ください!****
もし原作を先に読んでから映画をみたら、もしかしたらjesterはがっかりしたかもしれません。
映画は原作に忠実に作られているものの、原作のほうでは圧倒的に情報量が多く(まあ13万語で書かれているのというので、仕方ない部分もありますが)、また三人称で書かれていて、今時の小説には珍しく、ほとんど会話はなくて、心理や考えていることが延々と綴られているんですよ。
なのでこの小説の映画化は、とても難しかったと思います。
何を考えているのか、俳優の表情だけで表現しなくてはいけないから。
だから、例えば私たちはセシリア(キーラ・ナイトレイ)がなんであんなにぷんぷんしてるのか、その表情から読み取らなくちゃいけないのでありました。
ところが原作を読むと判るのですが、あの噴水での出来事の前に、『はだし事件』というのがあるのです。
ロビーが館にやってくるのだけれど、玄関から入ろうとして、床を掃除しているのを見て汚れてもいない靴をぬぎ、その上靴下まで脱いだ、という。
それをみたセシリアは、「『掃除人の息子』をあくまで演じる気ね!」とイライラするのです。
というのは、ケンブリッジに彼らがいた頃、出自について意地の悪い友達に大声で聞かれたりして、ロビーはいろいろ嫌な思いをしていて、また、セシリアが一回はロビーの部屋に遊びに来たものの、その後外であってもにっこりするぐらいで、小さい頃はあんなに仲良かったのに冷たいと感じている。
そして、セシリアが友人に「ほら、あれはうちの使用人の息子よ」って言っているのではないかと疑心暗鬼に陥ったりしていて、だからロビーは屋敷に帰ってきた時に、しなくてもいいのに庭師の仕事をしたりしているのでありました。
それをまたセシリアは「距離を置いている。=自分に冷たい」と感じていたのですね。
しかもセシリアは大学をでてからやることもなく、自分でもよくわからないけれど屋敷を出ることもしないで、ロビーを見るとどうして自分がイライラするのかよくわからないままに過ごしているのでした。
なのであの噴水ドブンにいたり、そして手紙です。
・・・・続きます・・・・(ここでか!!)(殴

